ひおき歴史街道 No.21 No.21

貴久の加世田攻略と伊作流鏑馬の由来

 一宇治城攻略後、伊集院各村の領主はことごとく島津忠良・貴久父子に服従し、天文5年(1536年)11月28日には土橋勘解由左衛門が、自身が守る長崎栫(日置市伊集院町土橋)に火をかけて降参。12月7日には、石谷城(鹿児島市石谷町)を接収。翌6年正月には、実久方肥後盛治助西(恕世などとも)が籠る竹之山城(日置市伊集院町竹之山)を攻略し、2月には、福山城(鹿児島市福山町)を守る肥後盛家(助西の兄又は父とも)も鹿児島に退去しました。同月、忠良・貴久は、犬迫栫(同市犬迫町)も攻略して、鹿児島までの攻略ルートを確保。これにより、鹿児島の実久方は谷山を経て南薩地域に退去しました。
 天文6年5月、忠良・貴久父子と薩州家島津実久は、一時和睦しますが、これも破談となり、翌7年12月19日、加世田(南さつま市)をめぐる両家の前哨戦が始まります。同28日、忠良・貴久らも同地へ出陣し、実久方の加世田別府城へ夜襲をかけました。激戦の末、未明に本城を攻め落とし、守将阿多飛騨守ら多くを討ち取りました。また、同29日には、貴久・忠将兄弟が川辺方面からの実久方の援軍大寺越前守・鎌田加賀守政真を迎え撃ちました。
 この加世田攻略に先立ち、忠良は、大汝八幡(伊作八幡:日置市吹上町中原 現・大汝牟遅神社)で流鏑馬を奉納し、戦勝祈願を行ったとされます。これが、現在にまでに続く「伊作流鏑馬」です(※注)。

【参考図書・史料】『鹿児島県史料』旧記雑録前編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・地誌備考2(鹿児島県)、『三国名勝図会』、下野敏見氏『生きている民俗探訪』(第一法規出版)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)、『吹上郷土誌』通史編1・3・資料編・『吹上郷土史』上・中・下巻・現代編・『吹上町の文化財と神話・伝説』(旧吹上町教育委員会)※注:当初、諏訪神社〈吹上町湯之浦 現・南方神社〉に奉納し、後に大汝牟遅神社で行うようになったとも伝わる。

大汝牟遅神社の流鏑馬(伊作流鏑馬)

大汝牟遅神社の流鏑馬の様子

毎年11月23日に同社前の馬場で行われる。約200mの馬場に40m間隔に設けた3つの的を2人の射手が馬上から弓で射る。射手は、事前に「九字切」で魔をはらい、また、「別当」と呼ばれる子どもが馬場を走って清める。県内3カ所に残る流鏑馬行事の1つで、武家文化を今に伝える伝統行事であるとともに、民俗学的には豊作などの年占い行事でもあると考えられている。同社には忠良奉納と伝わる箙(えびら)も残る(ひおき歴史街道No.3参照)。