ひおき歴史街道 No.22 No.22

薩州家との最終決戦―市来鶴丸城攻略―

日置市教育委員会社会教育課文化係

 天文8年(1539年)3月、相州家 島津貴久と谷山の薩州家・島津実久方は、紫原(鹿児島市)で会戦となりました。貴久は、「月毛」の馬に乗って自ら指揮を執り、戦いに勝利。谷山を支配下に治めます。また、貴久の父・忠良も加世田から川辺(南九州市)に出陣し、川辺高城(松尾城)・平山城を開城させました。穎娃(同市)・指宿(指宿市)領主の穎娃氏や喜入(鹿児島市)領主 島津忠俊(後の喜入氏)も貴久に服従し、南薩は貴久の勢力下となりました。
 同年閏6月、貴久は、串木野・市来(いちき串木野市・日置市東市来町)攻略に着手。総陣ヶ尾(日置市東市来町長里 現・東市来中学校)に陣を張って平之城(同長里)を攻略し、東隣の実久方居城・市来鶴丸城(同町長里 鶴丸小学校裏山)を包囲します。27日、城の南側「大日寺口」(同校正門周辺)で両者は激しく戦い、城を守っていた実久の弟・忠辰が戦死しましたが、当時「比類無き能き城」と称された市来鶴丸城は落ちず、8月8日の攻勢でも攻略できませんでした。ところが、28日、近隣の串木野城主川上忠克(実久の舅)が串木野城を明渡して撤退し、貴久方の入来院(薩摩川内市)領主の入来院重朝(貴久の義兄:妻の兄)が川内(同市)を占領したことから、市来鶴丸城は孤立し、同29日、城を守る新納忠苗らは降伏しました。忠良・貴久は、敵である新納を許し、解放したといいます。
 市来攻略後、実久の抵抗は止み、貴久は実久との島津本家家督の座をめぐる争いに事実上勝利しました。薩摩半島を統一した貴久は、北薩や大隅半島平定に移行し、各地の領主を従えて名実ともに太守となります。島津家念願の薩摩・大隅・日向の三州平定は、貴久の代では叶わなかったものの、その宿望は子の義久・義弘らに引き継がれていくことになります。

地蔵菩薩塔(東市来町長里)

地蔵菩薩塔の写真

 昭和14年(1939年)、市来鶴丸城跡付近の宇都小路(うとんすつ)入口の暗渠(あんきょ)下から発見された地蔵菩薩を祀る石塔。貴久の父・忠良は、敵味方の区別なく戦死者の霊を弔ったとされることから、貴久の市来鶴丸城攻略後、島津忠良の発起によって建立されたものと考えられている。

参考図書・史料

  • 『鹿児島県史料』旧記雑録前編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・地誌備考2(鹿児島県)
  • 『三国名勝図会』
  • 『鹿児島県史料集』35「樺山玄佐自記並雑丁未随筆・樺山紹剣自記」(鹿児島県史料刊行会)
  • 新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)
  • 『東市来町郷土史』(東市来町)
  • 『東市来町誌』(同町教育委員会)