ひおき歴史街道 No.23 No.23

日置島津家祖 島津歳久没後430年

日置市教育委員会社会教育課文化係

日置市日吉町日置は、江戸時代、日置郷と呼ばれ、日置島津家の領地でした。日置島津家は、「島津四兄弟」の三弟 島津歳久(1537.92)を祖に持つ島津氏分家で、令和4年は、この歳久没後430年の節目に当たります。

歳久は、天文6年(1537年)7月10日、島津貴久の三男として伊作城(日置市吹上町中原)で生まれました。同23年、歳久18歳の時、兄義久・義弘とともに岩剱合戦(姶良市)で初陣し、翌弘治元〜3年(1555〜57年)の大隅合戦では、自らも負傷しながら奮戦しました。永禄6年(1563年)、吉田領主(鹿児島市)となり、元亀3年(1572年)には、島津家に対抗していた垂水領主伊地知重興の支城を攻略します。天正8年(1580年)、祁答院領主(薩摩川内市・さつま町)に転じ、同6年の豊後大友氏との「耳川の戦い」(宮崎県木城町)、同9年(1581年)の肥後相良氏との戦いである水俣城攻略戦(熊本県水俣市)、同14年の豊後進攻(大分県)など、九州各地の重要な戦局で活躍しました。

島津家伝統の弓術「犬追物」や琉球使節の歓迎の際には弓の射手を務めた一方、京都の公家との交流の中で、和歌を嗜み、天正3年には上京し、蹴鞠の免許を得るなど文化にも通じ、後世には「智計」に並ぶ者なしと評されました。

文武に優れ、四兄弟の九州統一戦の一角を担ってきた歳久でしたが、豊臣秀吉の九州征伐以降は、悲劇に見舞われることとなります。

心岳寺講島津歳久位牌(日置市吹上歴史民俗資料館蔵)

心岳寺講島津歳久位牌の画像.jpg

旧日置郷で島津歳久の菩提(ぼだい)を弔うための組織「心岳様講(竜ヶ水御講)」で使用されたと伝わる位牌。歳久の法名「心嶽(岳)良空大禅伯」が刻まれている。「心岳様講」では、講員が持ち回りの座元(ざもと)の家に集まり、歳久の遺徳を偲ぶとともに、飲食を共にした。この風習は、昭和7年(1932年)頃まで行われていたという。

参考図書・史料

  • 『鹿児島県史料』旧記雑録後編1、旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県)
  • 『三国名勝図会』、『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県立図書館)
  • 『島津金吾歳久公四百年祭志』(平松神社四百年祭実行委員会)
  • 桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社)
  • 新名一仁氏『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)
  • 『日吉町郷土誌』上・下巻(旧日吉町)