ひおき歴史街道 No.24 No.24

大乗寺跡島津歳久墓

日置市教育委員会社会教育課文化係

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐における根白坂の戦い(宮崎県木城町)で、島津歳久の娘婿で日置島津家二代の島津忠隣が戦死。このためか、歳久は、秀吉への徹底抗戦を主張し、歳久の居城 虎居城(さつま町)に籠ります。兄の島津家16代当主 義久が秀吉に降伏した後も、歳久は自身の居城に秀吉が入ることを拒否した上、領内を通過する秀吉の輿に矢をかけたといいます。

天正20年、梅北一揆が発生し、秀吉は、歳久が当時病のため出兵していなかったにも関わらず、歳久の家臣がその反乱に加担したとして義久に歳久の処罰を命じました。歳久は、病をおして鹿児島の義久のもとに出頭して弁解するも、領地祁答院への帰路、義久の追討により竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害しました(討死とも)。島津家は、秀吉への忠誠を歳久の死により示すほかなかったのです。

文禄4年(1595年)、歳久の孫 常久に日置・山田・神之川(日吉町内各大字)の領地が与えられました。日置の吉富山大乗寺は、常久が祖父歳久の菩提寺として再興したとされます。また、歳久が亡くなった竜ヶ水には、かつて、歳久の菩提をった曹洞宗寺院 瀧水山心岳寺があり、伊集院「妙円寺詣り」や加世田「日新寺詣り」と並ぶ参詣行事「心岳寺詣り」が行われます。大乗寺や心岳寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、いずれも歳久の墓が残されています。

大乗寺跡島津歳久墓.JPG

大乗寺 島津歳久墓
(日吉町日置 市指定記念物<史跡>)

吉富山大乗寺は、元々、歳久の母雪窓院建立の臨済宗寺院(一岳等忍和尚開山)で、曹洞宗寺院として再興された(寺領50余石)。廃仏毀釈で廃寺となるが、跡地には日置島津家歴代当主らの墓が残る。歳久の墓には歳久の法号「心岳良空大禅伯」と後に改めて付された神号「碧空嚴岳彦命」が刻まれている。

歳久の首は、京都で晒された後、京都浄福寺に密かに葬られた。胴体は帖佐総禅寺(姶良市)に葬られたが、明治5年(1872)、日置島津家14代久明が双方を心岳寺に合葬し、さらに大正から昭和初め頃、これを大乗寺跡に改葬したという。

鹿児島市心岳寺跡地の平松神社やさつま町の大石神社などは歳久を祭神とし、鹿児島市の歳久 前居城の吉田城跡や吉野 帯迫鎮守神社、薩摩川内市天沢寺跡、さつま町、伊佐市には歳久の供養塔などがある。各地での歳久追慕の念の表れだろう。

参考図書・史料

  • 『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県)
  • 『三国名勝図会』
  • 『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県史料刊行会)
  • 『島津金吾歳久公四百年祭志』(平松神社四百年祭実行委員会)
  • 桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社)
  • 新名一仁氏『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)・『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA
  • 『日吉町郷土史』上・下巻(旧日吉町)