ひおき歴史街道 No.25 No.25

光禅寺跡 島津歳久夫人の墓

日置市教育委員会社会教育課文化係

元年(1592年)、島津歳久非業の死により、歳久の家中は騒然としました。一家断絶の可能性もある中、歳久の妻 悦窓院は、娘の蓮秀夫人(2代忠隣の妻)と孫の常久(蓮秀夫人と忠隣の子)とともに、居城虎居城(さつま町宮之城)に立て籠もります。島津家16代当主 義久は、家臣 比志島国貞を使者として送り、常久の身の安全を保障するとして城から出るよう命じました。しかし、蓮秀夫人は、「常久への配慮はありがたいが、歳久がこのような扱いをされた以上、助かっても意味がない。歳久同様の扱いをしてくれれば本望だ」とし、これを拒否します。義久は、自身と豊臣政権の重臣である細川幽斎(藤孝)の起請文(神仏に誓って約束をする証書)で改めて常久ら3人とその家臣たちの安全を約束するとともに、龍雲寺(当市東市来町長里)の一岳和尚や大窓寺・福昌寺(鹿児島市)の僧侶、そして、家臣 新納忠元を使者として送り、再三の説得に及びました。これを受け、常久ら3人は、やっと城を出ました。3人は、堪忍(かんにん)分として高300石余を与えられ、入来(いりき)領主 入来院氏に身柄を預けられました。

島津歳久夫人墓.jpg

光禅寺 悦窓院墓
日吉町日置 市指定記念物<史跡>

光禅寺跡境内の島津歳久の妻 悦窓院の墓(宝篋印塔)。法名「悦窻永喜大姉」の刻銘が残る。悦窓院は、吉田郷士 兒島備中守の娘。同郷士の本田惣左衛門尉(中村氏とも)に嫁いだが、惣左衛門尉が戦死し、歳久と再婚した。

 瑞喜山光禅寺は、志布志大慈寺末寺の臨済宗寺院(本尊:薬師如来)。当初、悦窓院と称したが、承応2年(1653)に光禅寺に改号した。開山の瑞岳和尚は、当初、日置郷山田の岩殿寺に招かれたとされる。明治初期、廃仏毀釈により廃寺。

参考図書・史料

【参考図書・史料】『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県)、『三国名勝図会』、『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県史料刊行会)、桐野作人氏『薩摩人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社)、『日吉町郷土史』上巻(旧日吉町)

※常久の母 蓮秀夫人(蓮秀妙心庵主:1567-1641)の墓は、入来寿昌寺跡(薩摩川内市)にある。夫人は、天正15年(1587)の根白坂の戦いで前夫 忠隣(薩州家義虎の子)を亡くしていたが、入来院重時と再婚。しかし、重時も、慶長5年、関ヶ原の戦いの敵中突破後、本隊とはぐれ、近江国で戦死してしまう。同11年、同家存続のため奔走し、穎娃久秀(薩州家義虎の子)を娘婿とした。なお、実子 常久も同19年に28歳の若さで先に病死している。