ひおき歴史街道 No.27 No.27

島津義久生誕490年 雪窓院跡

日置市教育委員会社会教育課文化係

「島津四兄弟」の長兄 島津義久は、天文2年(1533年)2月9日、島津貴久の子として薩摩国伊作(日置市吹上町)で生まれました。令和5年は、この義久生誕490年の節目に当たります。

幼少期、坊津一乗院(南さつま市坊津町)で学んだ後、天文23年、22歳の時、弟の義弘・歳久とともに岩剱合戦(姶良市)で初陣し、自らも一隊の指揮を執りました。弘治3年(1557年)の蒲生城攻略戦(姶良市蒲生町)でも、乱戦の中、前線に立ち、に矢を受けています。

永禄7年(1564年)、朝廷の官職「修理大夫」に補任され、さらに同9年2月には、島津本家の家督を継いで第16代当主となります。以降、島津家の支配域を拡大させ、兄弟とともに家中をまとめあげてきました。

同10年12月、義久は、父 貴久がかつて居城とし、義久自身も幼少期を過ごしたであろう一宇治城(当市伊集院町大田)の麓に寺院を建立します。天文13年8月15日、義久は、12歳の時、母(入来院重聡の娘)を亡くしていましたが、義久は、母の戒名「雪窓妙安大姉」からこの寺を千秋山雪窓院と号し、母の菩提寺としました。天正4年(1576年)の雪窓院の三十三回忌に際しては、「月にちるはゝその秋はほどもなく 雪にむかはん窓のやま風」との追悼歌を贈っています。義久にとって、この寺は、一際思い入れのある地でありました。

雪窓院跡「三国名勝図会」

雪窓院跡「三国名勝図会」.jpg

雪窓院は、二株和尚を開山とする曹洞宗寺院。本尊は、聖観音他3体。江戸時代は、田布施常珠寺(南さつま市)の末寺で、義久が寄付した寺田100石を有しました。当時は、雪窓院の位牌と廟所がありましたが、昭和3年(1928年)6月13日、雪窓妙安の墓は、福昌寺跡(鹿児島市)の島津家墓所に改葬されています。

参考図書・史料

『鹿児島県史料』旧記雑録後編1・地誌備考2(鹿児島県)、『三国名勝図会』、鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書80『薩摩藩主島津家墓所(福昌寺跡)調査報告書』(鹿児島市教育委員会)、『島津家資料 島津氏征討系図』全(島津家資料刊行会)、塩満郁夫氏編『鹿児島県史料拾遺』14「伊集院由緒記」(「鹿児島県史料拾遺」刊行会)、桐野作人『さつま人国誌』戦国・近世編2・3(南日本新聞社)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)、『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)、『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA