ひおき歴史街道 No.28 No.28
島津義久生誕490年 義久の剃髪石
日置市教育委員会社会教育課文化係
戦国時代、島津家は、次第に勢力を拡大し、天正14年(1586年)には、九州統一を目前にしました。しかし、翌年の豊臣秀吉率いる20万もの大軍による「九州征伐」により、拡大した支配地から撤退し、根白坂(宮崎県木城町)の戦いなどでも敗戦。同15年5月8日、ついに第16代島津家当主 義久(1533年‐1611年)は、川内泰平寺(鹿児島県薩摩川内市)で秀吉に降伏しました。この降伏に先立つ同月6日、義久は、母の菩提寺である伊集院の千秋山雪窓院で剃髪して出家し、「龍伯」と号していました。義久は、秀吉への降伏前に、思い入れのある母の菩提寺で出家することで、その覚悟を決めたのかもしれません。
江戸後期の『伊集院由緒記』という史料には、雪窓院寺地内の「御剃髪石」についての記載があり、義久は、秀吉に降伏するに当たり、この石の上で髪を剃ったとしています。現在、雪窓院跡周辺の城山隧道(トンネル)前の交差点付近には、この剃髪石とされる大きな石があります。石のそばには雪窓院のものと思われる仁王像の頭部や僧侶の墓(無縫塔(むほうとう))などの石造物も残っています。また、伊集院中学校敷地内の「美(うるわ)しき魂」碑の石材も、雪窓院正門前の石橋の一部である「門石」と伝わります。
雪窓院「剃髪石」(伊集院町大田)
「剃髪石」は、昭和60年(1985)3月に現在地に移されたものです。『伊集院由緒記』によると、江戸時代、雪窓院大門口の北側にあった観音堂の後ろにあったとしています。剃髪石自体は、元々、雪窓院の寺地内にあったようですが、この観音堂は、妙円寺の支配下にあり、義久剃髪の地であることから、三十三体巡礼観音を建立し、観音堂のあった地を「御剃髪観音屋舗」と呼んでいたとしています。
参考図書・史料
『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・地誌備考2(鹿児島県)、塩満郁夫氏編『鹿児島県史料拾遺』14「伊集院由緒記」(「鹿児島県史料拾遺」刊行会)、桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編2・3(南日本新聞社)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)・『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)・『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA)、『伊集院郷土史』・『伊集院町誌』(旧伊集院町)