#ひおき歴史街道
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ひおき歴史街道 No.29「千本楠」県指定天然記念物へ 日置市教育委員会社会教育課文化係 吹上の大汝牟遅(おおなむち)神社(日置市吹上町中原)の参道東側には、「千本楠(せんぼんぐす)」(日置市指定天然記念物)の名で知られるクスノキの群生地があります。令和5年3月20日、鹿児島県文化財保護審議会は、この「千本楠」を鹿児島県指定文化財(記念物:天然記念物)とするよう答申しました。 クスノキは、クスノキ科クスノキ属の常緑高木で、関東南部以西の本州や四国、九州・沖縄に分布し、日本最大を誇る「蒲生(かもう)のクス(大楠)」(姶良市・国指定特別天然記念物)をはじめ、樹齢を重ねるにつれて巨木化することで知られます。 「千本楠」の敷地には、樹高約22メートル、幹の直径約0.8~2.5メートルのクスノキが約20本群生しており、この光景から「千本楠」と呼び親しまれています。このようにクスノキの巨樹が1カ所に集中して群生することは珍しいとされます。 明治43年(1910)の日英博覧会で、当時の農商務省が「千本楠」のクスノキを標本として出品した際、その切株を調べたところ樹齢800年以上とされたようです。また、大正から昭和初期の専売局や営林局(現在の森林管理局)は、樹齢200~400年とも推定しています。 「千本楠」は、複数の太い横枝が地を這うように水平に伸びた姿も特徴的です。「シャボン玉」や「七つの子」などの作詞で知られる明治後期から昭和期の詩人 野口雨情(1882~1945)は、この光景を見て、「伊作(いざく)八幡千本楠は 横へ横へと寝てのびる」と詠んでいます。 千本楠(日置市吹上町中原字楠園) かって、「千本補」の敷地は、「楠屋敷」とも呼ばれていた。近代、その一部は国有林「楠園」とされ、大正5年(1916)には1日保護林制度により、名木保存学術考証のための保護林「千本楠」に設定され、準施業制限地および禁伐地となっていた。 戦後は、大次牟遅神社所有地と林野庁所管地であったが、昭和40年(1965)に旧吹上町指定文化財(記念物:天然記念物)に指定され、平成17年(2005)には、合併に伴い日置市指定文化財(記念物:天然記念物)となっていた。 参考図書・史料 『日英博覧会事務局事務報告』上・下巻(旧農商務省)、本多静六氏編『大日本老樹名木誌』(大日本山林会)、『鹿児島案内』(鹿児島案内編纂事務所)、『国有保護林概観 附・国有林内ノ銘木及伝説木概観』(農商務省山林局)、『樟脳要覧』(鹿児島地方専売局)、『熊本営林局管内経営要録』(熊本営林局)、農林省山林局編『国有林』上巻(大日本山林会)、『ふきあげ 10年のあゆみ』(旧吹上町)、『吹上郷土史』上・中・下巻・現代編・『吹上町の文化財と神話・伝説』・『吹上郷土誌』通史編1・3、資料編(旧吹上町教育委員会)、松江正彦氏・飯塚康雄氏「巨樹・老樹の保全対策事例集」『国土技術政策総合研究所資料』566(国土交通省国土技術政策総合研究所)、環境省自然環境局生物多様性センター「巨樹・巨木林データベース」HP
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ひおき歴史街道 No.28島津義久生誕490年 義久の剃髪石 日置市教育委員会社会教育課文化係 戦国時代、島津家は、次第に勢力を拡大し、天正14年(1586年)には、九州統一を目前にしました。しかし、翌年の豊臣秀吉率いる20万もの大軍による「九州征伐」により、拡大した支配地から撤退し、根白坂(宮崎県木城町)の戦いなどでも敗戦。同15年5月8日、ついに第16代島津家当主 義久(1533年‐1611年)は、川内泰平寺(鹿児島県薩摩川内市)で秀吉に降伏しました。この降伏に先立つ同月6日、義久は、母の菩提寺である伊集院の千秋山雪窓院で剃髪して出家し、「龍伯」と号していました。義久は、秀吉への降伏前に、思い入れのある母の菩提寺で出家することで、その覚悟を決めたのかもしれません。 江戸後期の『伊集院由緒記』という史料には、雪窓院寺地内の「御剃髪石」についての記載があり、義久は、秀吉に降伏するに当たり、この石の上で髪を剃ったとしています。現在、雪窓院跡周辺の城山隧道(トンネル)前の交差点付近には、この剃髪石とされる大きな石があります。石のそばには雪窓院のものと思われる仁王像の頭部や僧侶の墓(無縫塔(むほうとう))などの石造物も残っています。また、伊集院中学校敷地内の「美(うるわ)しき魂」碑の石材も、雪窓院正門前の石橋の一部である「門石」と伝わります。 雪窓院「剃髪石」(伊集院町大田) 「剃髪石」は、昭和60年(1985)3月に現在地に移されたものです。『伊集院由緒記』によると、江戸時代、雪窓院大門口の北側にあった観音堂の後ろにあったとしています。剃髪石自体は、元々、雪窓院の寺地内にあったようですが、この観音堂は、妙円寺の支配下にあり、義久剃髪の地であることから、三十三体巡礼観音を建立し、観音堂のあった地を「御剃髪観音屋舗」と呼んでいたとしています。 参考図書・史料 『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・地誌備考2(鹿児島県)、塩満郁夫氏編『鹿児島県史料拾遺』14「伊集院由緒記」(「鹿児島県史料拾遺」刊行会)、桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編2・3(南日本新聞社)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)・『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)・『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA)、『伊集院郷土史』・『伊集院町誌』(旧伊集院町)
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ひおき歴史街道 No.27島津義久生誕490年 雪窓院跡 日置市教育委員会社会教育課文化係 「島津四兄弟」の長兄 島津義久は、天文2年(1533年)2月9日、島津貴久の子として薩摩国伊作(日置市吹上町)で生まれました。令和5年は、この義久生誕490年の節目に当たります。 幼少期、坊津一乗院(南さつま市坊津町)で学んだ後、天文23年、22歳の時、弟の義弘・歳久とともに岩剱合戦(姶良市)で初陣し、自らも一隊の指揮を執りました。弘治3年(1557年)の蒲生城攻略戦(姶良市蒲生町)でも、乱戦の中、前線に立ち、兜に矢を受けています。 永禄7年(1564年)、朝廷の官職「修理大夫」に補任され、さらに同9年2月には、島津本家の家督を継いで第16代当主となります。以降、島津家の支配域を拡大させ、兄弟とともに家中をまとめあげてきました。 同10年12月、義久は、父 貴久がかつて居城とし、義久自身も幼少期を過ごしたであろう一宇治城(当市伊集院町大田)の麓に寺院を建立します。天文13年8月15日、義久は、12歳の時、母(入来院重聡の娘)を亡くしていましたが、義久は、母の戒名「雪窓妙安大姉」からこの寺を千秋山雪窓院と号し、母の菩提寺としました。天正4年(1576年)の雪窓院の三十三回忌に際しては、「月にちるはゝその秋はほどもなく 雪にむかはん窓のやま風」との追悼歌を贈っています。義久にとって、この寺は、一際思い入れのある地でありました。 雪窓院跡「三国名勝図会」 雪窓院は、二株和尚を開山とする曹洞宗寺院。本尊は、聖観音他3体。江戸時代は、田布施常珠寺(南さつま市)の末寺で、義久が寄付した寺田100石を有しました。当時は、雪窓院の位牌と廟所がありましたが、昭和3年(1928年)6月13日、雪窓妙安の墓は、福昌寺跡(鹿児島市)の島津家墓所に改葬されています。 参考図書・史料 『鹿児島県史料』旧記雑録後編1・地誌備考2(鹿児島県)、『三国名勝図会』、鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書80『薩摩藩主島津家墓所(福昌寺跡)調査報告書』(鹿児島市教育委員会)、『島津家資料 島津氏征討系図』全(島津家資料刊行会)、塩満郁夫氏編『鹿児島県史料拾遺』14「伊集院由緒記」(「鹿児島県史料拾遺」刊行会)、桐野作人『さつま人国誌』戦国・近世編2・3(南日本新聞社)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)、『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)、『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA)
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ひおき歴史街道 No.26かごしま無形民俗文化財(民俗芸能)伝承活動表彰 日置市教育委員会社会教育課文化係 鹿児島県教育委員会では、県内の民俗芸能の伝承活動に取り組んでいる児童生徒に対し、その伝承意欲を高め、後継者の育成を図るため、「かごしま無形民俗文化財(民俗芸能)伝承活動表彰」を実施しています。おおむね2年以上、国・県・市町村指定の無形民俗文化財の伝承活動に取り組む児童生徒を対象に奨励賞の授与をおこなっています。 今年度からは、5年以上の伝承活動に取り組み、特に貢献のあった児童生徒に授与する「かごしま民俗芸能活動特別奨励賞」も創設されました。 日置市からは、県・市指定無形民俗文化財の保存会2団体から9人の小中学生が表彰され、内、大田太鼓踊の上荒磯伶玖さん(伊集院中2年)が特別奨励賞を受賞しました。 少子高齢化や、コロナ禍の中、民俗芸能の伝承・披露活動は難しい状況にありますが、貴重な民俗芸能を後世に伝承するため、本市もその活動を支援していきます。 受賞団体 鹿児島県指定無形民俗文化財「大田太鼓踊」大田太鼓踊保存会(特別奨励賞1人・奨励賞2人) 日置市指定無形民俗文化財「お田植え踊」諏訪笹踊保存会(奨励賞6人) 「大田太鼓踊」(徳重神社境内)
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ひおき歴史街道 No.25光禅寺跡 島津歳久夫人の墓 日置市教育委員会社会教育課文化係 文禄元年(1592年)、島津歳久の非業の死により、歳久の家中は騒然としました。一家断絶の可能性もある中、歳久の妻 悦窓院は、娘の蓮秀夫人(2代忠隣の妻)と孫の常久(蓮秀夫人と忠隣の子)とともに、居城虎居城(さつま町宮之城)に立て籠もります。島津家16代当主 義久は、家臣 比志島国貞を使者として送り、常久の身の安全を保障するとして城から出るよう命じました。しかし、蓮秀夫人は、「常久への配慮はありがたいが、歳久がこのような扱いをされた以上、助かっても意味がない。歳久同様の扱いをしてくれれば本望だ」とし、これを拒否します。義久は、自身と豊臣政権の重臣である細川幽斎(藤孝)の起請文(神仏に誓って約束をする証書)で改めて常久ら3人とその家臣たちの安全を約束するとともに、龍雲寺(当市東市来町長里)の一岳和尚や大窓寺・福昌寺(鹿児島市)の僧侶、そして、家臣 新納忠元を使者として送り、再三の説得に及びました。これを受け、常久ら3人は、やっと城を出ました。3人は、堪忍(かんにん)分として高300石余を与えられ、入来(いりき)領主 入来院氏に身柄を預けられました。 光禅寺跡 悦窓院墓日吉町日置 市指定記念物<史跡> 光禅寺跡境内の島津歳久の妻 悦窓院の墓(宝篋印塔)。法名「悦窻永喜大姉」の刻銘が残る。悦窓院は、吉田郷士 兒島備中守の娘。同郷士の本田惣左衛門尉(中村氏とも)に嫁いだが、惣左衛門尉が戦死し、歳久と再婚した。 瑞喜山光禅寺は、志布志大慈寺末寺の臨済宗寺院(本尊:薬師如来)。当初、悦窓院と称したが、承応2年(1653)に光禅寺に改号した。開山の瑞岳和尚は、当初、日置郷山田の岩殿寺に招かれたとされる。明治初期、廃仏毀釈により廃寺。 参考図書・史料 【参考図書・史料】『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県)、『三国名勝図会』、『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県史料刊行会)、桐野作人氏『薩摩人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社)、『日吉町郷土史』上巻(旧日吉町) ※常久の母 蓮秀夫人(蓮秀妙心庵主:1567-1641)の墓は、入来寿昌寺跡(薩摩川内市)にある。夫人は、天正15年(1587)の根白坂の戦いで前夫 忠隣(薩州家義虎の子)を亡くしていたが、入来院重時と再婚。しかし、重時も、慶長5年、関ヶ原の戦いの敵中突破後、本隊とはぐれ、近江国で戦死してしまう。同11年、同家存続のため奔走し、穎娃久秀(薩州家義虎の子)を娘婿とした。なお、実子 常久も同19年に28歳の若さで先に病死している。
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ひおき歴史街道 No.24大乗寺跡島津歳久墓 日置市教育委員会社会教育課文化係 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐における根白坂の戦い(宮崎県木城町)で、島津歳久の娘婿で日置島津家二代の島津忠隣が戦死。このためか、歳久は、秀吉への徹底抗戦を主張し、歳久の居城 虎居城(さつま町)に籠ります。兄の島津家16代当主 義久が秀吉に降伏した後も、歳久は自身の居城に秀吉が入ることを拒否した上、領内を通過する秀吉の輿に矢を射かけたといいます。 天正20年、梅北一揆が発生し、秀吉は、歳久が当時病のため出兵していなかったにも関わらず、歳久の家臣がその反乱に加担したとして義久に歳久の処罰を命じました。歳久は、病をおして鹿児島の義久のもとに出頭して弁解するも、領地祁答院への帰路、義久の追討により竜ヶ水(鹿児島市吉野町)で自害しました(討死とも)。島津家は、秀吉への忠誠を歳久の死により示すほかなかったのです。 文禄4年(1595年)、歳久の孫 常久に日置・山田・神之川(日吉町内各大字)の領地が与えられました。日置の吉富山大乗寺は、常久が祖父歳久の菩提寺として再興したとされます。また、歳久が亡くなった竜ヶ水には、かつて、歳久の菩提を弔った曹洞宗寺院 瀧水山心岳寺があり、伊集院「妙円寺詣り」や加世田「日新寺詣り」と並ぶ参詣行事「心岳寺詣り」が行われます。大乗寺や心岳寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、いずれも歳久の墓が残されています。 大乗寺跡 島津歳久墓(日吉町日置 市指定記念物<史跡>) 吉富山大乗寺は、元々、歳久の母雪窓院建立の臨済宗寺院(一岳等忍和尚開山)で、曹洞宗寺院として再興された(寺領50余石)。廃仏毀釈で廃寺となるが、跡地には日置島津家歴代当主らの墓が残る。歳久の墓には歳久の法号「心岳良空大禅伯」と後に改めて付された神号「碧空嚴岳彦命」が刻まれている。 歳久の首は、京都で晒された後、京都浄福寺に密かに葬られた。胴体は帖佐総禅寺(姶良市)に葬られたが、明治5年(1872)、日置島津家14代久明が双方を心岳寺に合葬し、さらに大正から昭和初め頃、これを大乗寺跡に改葬したという。 鹿児島市心岳寺跡地の平松神社やさつま町の大石神社などは歳久を祭神とし、鹿児島市の歳久 前居城の吉田城跡や吉野 帯迫鎮守神社、薩摩川内市天沢寺跡、さつま町、伊佐市には歳久の供養塔などがある。各地での歳久追慕の念の表れだろう。 参考図書・史料 『鹿児島県史料』旧記雑録後編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県) 『三国名勝図会』 『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県史料刊行会) 『島津金吾歳久公四百年祭志』(平松神社四百年祭実行委員会) 桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社) 新名一仁氏『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)・『「不屈の両殿」島津義久・義弘―関ヶ原後も生き抜いた才知と武勇』(KADOKAWA) 『日吉町郷土史』上・下巻(旧日吉町)
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ひおき歴史街道 No.23日置島津家祖 島津歳久没後430年 日置市教育委員会社会教育課文化係 日置市日吉町日置は、江戸時代、日置郷と呼ばれ、日置島津家の領地でした。日置島津家は、「島津四兄弟」の三弟 島津歳久(1537.92)を祖に持つ島津氏分家で、令和4年は、この歳久没後430年の節目に当たります。 歳久は、天文6年(1537年)7月10日、島津貴久の三男として伊作城(日置市吹上町中原)で生まれました。同23年、歳久18歳の時、兄義久・義弘とともに岩剱合戦(姶良市)で初陣し、翌弘治元〜3年(1555〜57年)の大隅合戦では、自らも負傷しながら奮戦しました。永禄6年(1563年)、吉田領主(鹿児島市)となり、元亀3年(1572年)には、島津家に対抗していた垂水領主伊地知重興の支城を攻略します。天正8年(1580年)、祁答院領主(薩摩川内市・さつま町)に転じ、同6年の豊後大友氏との「耳川の戦い」(宮崎県木城町)、同9年(1581年)の肥後相良氏との戦いである水俣城攻略戦(熊本県水俣市)、同14年の豊後進攻(大分県)など、九州各地の重要な戦局で活躍しました。 島津家伝統の弓術「犬追物」や琉球使節の歓迎の際には弓の射手を務めた一方、京都の公家との交流の中で、和歌を嗜み、天正3年には上京し、蹴鞠の免許を得るなど文化にも通じ、後世には「智計」に並ぶ者なしと評されました。 文武に優れ、四兄弟の九州統一戦の一角を担ってきた歳久でしたが、豊臣秀吉の九州征伐以降は、悲劇に見舞われることとなります。 心岳寺講島津歳久位牌(日置市吹上歴史民俗資料館蔵) 旧日置郷で島津歳久の菩提(ぼだい)を弔うための組織「心岳様講(竜ヶ水御講)」で使用されたと伝わる位牌。歳久の法名「心嶽(岳)良空大禅伯」が刻まれている。「心岳様講」では、講員が持ち回りの座元(ざもと)の家に集まり、歳久の遺徳を偲ぶとともに、飲食を共にした。この風習は、昭和7年(1932年)頃まで行われていたという。 参考図書・史料 『鹿児島県史料』旧記雑録後編1、旧記雑録拾遺諸氏系譜3・家わけ9(鹿児島県) 『三国名勝図会』、『鹿児島県史料集』13「本藩人物誌」(鹿児島県立図書館) 『島津金吾歳久公四百年祭志』(平松神社四百年祭実行委員会) 桐野作人氏『さつま人国誌』戦国・近世編3(南日本新聞社) 新名一仁氏『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社) 『日吉町郷土誌』上・下巻(旧日吉町)
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ひおき歴史街道 No.22薩州家との最終決戦―市来鶴丸城攻略― 日置市教育委員会社会教育課文化係 天文8年(1539年)3月、相州家 島津貴久と谷山の薩州家・島津実久方は、紫原(鹿児島市)で会戦となりました。貴久は、「月毛」の馬に乗って自ら指揮を執り、戦いに勝利。谷山を支配下に治めます。また、貴久の父・忠良も加世田から川辺(南九州市)に出陣し、川辺高城(松尾城)・平山城を開城させました。穎娃(同市)・指宿(指宿市)領主の穎娃氏や喜入(鹿児島市)領主 島津忠俊(後の喜入氏)も貴久に服従し、南薩は貴久の勢力下となりました。 同年閏6月、貴久は、串木野・市来(いちき串木野市・日置市東市来町)攻略に着手。総陣ヶ尾(日置市東市来町長里 現・東市来中学校)に陣を張って平之城(同長里)を攻略し、東隣の実久方居城・市来鶴丸城(同町長里 鶴丸小学校裏山)を包囲します。27日、城の南側「大日寺口」(同校正門周辺)で両者は激しく戦い、城を守っていた実久の弟・忠辰が戦死しましたが、当時「比類無き能き城」と称された市来鶴丸城は落ちず、8月8日の攻勢でも攻略できませんでした。ところが、28日、近隣の串木野城主川上忠克(実久の舅)が串木野城を明渡して撤退し、貴久方の入来院(薩摩川内市)領主の入来院重朝(貴久の義兄:妻の兄)が川内(同市)を占領したことから、市来鶴丸城は孤立し、同29日、城を守る新納忠苗らは降伏しました。忠良・貴久は、敵である新納を許し、解放したといいます。 市来攻略後、実久の抵抗は止み、貴久は実久との島津本家家督の座をめぐる争いに事実上勝利しました。薩摩半島を統一した貴久は、北薩や大隅半島平定に移行し、各地の領主を従えて名実ともに太守となります。島津家念願の薩摩・大隅・日向の三州平定は、貴久の代では叶わなかったものの、その宿望は子の義久・義弘らに引き継がれていくことになります。 地蔵菩薩塔(東市来町長里) 昭和14年(1939年)、市来鶴丸城跡付近の宇都小路(うとんすつ)入口の暗渠(あんきょ)下から発見された地蔵菩薩を祀る石塔。貴久の父・忠良は、敵味方の区別なく戦死者の霊を弔ったとされることから、貴久の市来鶴丸城攻略後、島津忠良の発起によって建立されたものと考えられている。 参考図書・史料 『鹿児島県史料』旧記雑録前編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・地誌備考2(鹿児島県) 『三国名勝図会』 『鹿児島県史料集』35「樺山玄佐自記並雑丁未随筆・樺山紹剣自記」(鹿児島県史料刊行会) 新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版) 『東市来町郷土史』(東市来町) 『東市来町誌』(同町教育委員会)
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ひおき歴史街道 No.21貴久の加世田攻略と伊作流鏑馬の由来 一宇治城攻略後、伊集院各村の領主はことごとく島津忠良・貴久父子に服従し、天文5年(1536年)11月28日には土橋勘解由左衛門が、自身が守る長崎栫(日置市伊集院町土橋)に火をかけて降参。12月7日には、石谷城(鹿児島市石谷町)を接収。翌6年正月には、実久方肥後盛治助西(恕世などとも)が籠る竹之山城(日置市伊集院町竹之山)を攻略し、2月には、福山城(鹿児島市福山町)を守る肥後盛家(助西の兄又は父とも)も鹿児島に退去しました。同月、忠良・貴久は、犬迫栫(同市犬迫町)も攻略して、鹿児島までの攻略ルートを確保。これにより、鹿児島の実久方は谷山を経て南薩地域に退去しました。 天文6年5月、忠良・貴久父子と薩州家島津実久は、一時和睦しますが、これも破談となり、翌7年12月19日、加世田(南さつま市)をめぐる両家の前哨戦が始まります。同28日、忠良・貴久らも同地へ出陣し、実久方の加世田別府城へ夜襲をかけました。激戦の末、未明に本城を攻め落とし、守将阿多飛騨守ら多くを討ち取りました。また、同29日には、貴久・忠将兄弟が川辺方面からの実久方の援軍大寺越前守・鎌田加賀守政真を迎え撃ちました。 この加世田攻略に先立ち、忠良は、大汝八幡(伊作八幡:日置市吹上町中原 現・大汝牟遅神社)で流鏑馬を奉納し、戦勝祈願を行ったとされます。これが、現在にまでに続く「伊作流鏑馬」です(※注)。 【参考図書・史料】『鹿児島県史料』旧記雑録前編2・旧記雑録拾遺諸氏系譜3・地誌備考2(鹿児島県)、『三国名勝図会』、下野敏見氏『生きている民俗探訪』(第一法規出版)、新名一仁氏『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生』中世武士選書37(戎光祥出版)、『吹上郷土誌』通史編1・3・資料編・『吹上郷土史』上・中・下巻・現代編・『吹上町の文化財と神話・伝説』(旧吹上町教育委員会)※注:当初、諏訪神社〈吹上町湯之浦 現・南方神社〉に奉納し、後に大汝牟遅神社で行うようになったとも伝わる。 大汝牟遅神社の流鏑馬(伊作流鏑馬) 毎年11月23日に同社前の馬場で行われる。約200mの馬場に40m間隔に設けた3つの的を2人の射手が馬上から弓で射る。射手は、事前に「九字切」で魔をはらい、また、「別当」と呼ばれる子どもが馬場を走って清める。県内3カ所に残る流鏑馬行事の1つで、武家文化を今に伝える伝統行事であるとともに、民俗学的には豊作などの年占い行事でもあると考えられている。同社には忠良奉納と伝わる箙(えびら)も残る(ひおき歴史街道No.3参照)。